昭和50年1月27日 朝の御理解
中村良一
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
金光大神、助けてくれと言えば、おかげは授けてやる。金光大神様、助けてくださいと言わねばならないような時に、的確に助けていただけるおかげをいただけたら、本当に有難いことだと思うですね。それにはあの、金光大神の言うことに、よく、そむかぬように、守ってと仰っておられます。日頃は、御無礼ばっかりしとりましてから、お願いのある時だけ参ってきてというふうに、言い訳せんならんごたる事ではいけんということです。かというて、ほんなら、毎日まいりよりますから、果たして、そういう願いが、あの、出来るか、また、聞いて下さるかと言うと、そうでも無いのです。というてほんなら、金光大神の教えの全てをです。いうならば、守っておるというような事も、なかなか出来るものじゃないです。そこで私はあの、思うのですけれどもね。んー、一言でも、本気でそれを、守っていくと言うか、行じていくという信心が出来れば、私は、聞いて下さると思うですね。これはあの、昔からですけれども、私は、子供達が、まぁだ、子供の時分から、家内が、あーた、どうか言うてもらわにゃ、悪いことばっかりするからとか。または、あー、目に余るような場合、良くそんなふうに申します。そういう時に、私は、例えば、あの、一人一人の子供に、んー、一つの、まぁ例えば、長女の豊美は、私と、親教会のいろんな、あー、問題があの、あり続けておりました時分でも、中学校のころから、毎日、日参を欠かした事がございませんでした。ですから、私はね、あの人が、参れと言わんでも、あの参っておる。しかも、例えば、大変、いうならば、険悪なその、おー、親教会との間に、色んな問題があった時分でございますから、子供心にも、良くそれが分かっているんです。けれども、やはりあの、日参だけは続けていました。だから、豊美がね、あれを止めたときには、俺が言うてやると、家内に言いよりました。ね。どんなに、例えば、親の眼から見て、目に余るようなことがあっても、例えば、子供ながらに、そうした修行をさしてもらいよる。ね。必ず、こら降っても照っても、必ずお参りをしてくるんです。
長男の場合、今の若先生の場合、もう子供の時から、非常に悪そうでしたが、もう、近所から口上が入ってきますし、学校から言うて来ますしね。もうそれで、家内が、遠くからでん言いななさらにゃ、黙っちゃくるちから、言いますけれども。あの人が、十一の時から、御結界奉仕をしよります。もう、ちょうど、正月の、あの、正月の元旦にお夢を頂いてです。その時分に、あの、藤原という先生が、女の先生が、非常に霊徳面の優れた先生でしたけれども。非常に、何というですか。あー、もう、本当に目に余るようなことをする先生でした。そしたらその、おー、藤原先生が、御結界に奉仕をしておる時には、もう、それこそ、毅然たるものでしたけれどもね。あぁいう修行生が、例えば、こうした椛目におるのに、そういう一つの、まぁ、監督でも出来るようにならなければならんという意味の、そのお夢を子供の心に頂いておるわけです。だから、そらあんた、御結界奉仕をしなきゃいかんとじゃろと言うて、確かに、私が、四時の御祈念からですから、四時から五時の間でしたでしょうか、の、一時間を必ず、うー、御結界奉仕をするんです。親戚なんかに、歩きに行きましても、僕は、御結界の奉仕があるからというて、その時間になって帰って来よったです。ちょうどあの、椛目の直ぐ横に、小さい道がありましたが、ちょうどこの人が、五時から六時まで、座る間に、あの、紙芝居が来るんです。カチカチ拍子木やら打ってくるとですね。もう、やっぱしあの、時々は泣き出すようなことがありました。「あんた、泣くこつがいるもんか、一時間どん座っとるとに」と言うたら、「そげなこつ言うたっちゃ、おしっこが行きたい」ち言うてから、はぁ、たまにはここで、横になって寝とることもありました、眠ってから。それでもう、あちらの御結界の、あれが、あの椛目時代の御結界ですけれども。私は、あれだけは、あの人が座る。いつも記念にこれだかはとっとかんなんと言うてから、あの、御結界のまん前、ここんところにもう、鉛筆の芯で、こうこやって、穴ばいっぱいあけとるです。もう、代わりがちっと遅かったら、もやもやするわけですね。もうそげん時にその、鉛筆で、こうこやって、ここにその突き立てとるです。その痕が、いっぱい残っております、ね。それでもやっぱりですね。これこそ、一日も欠かさずに御用を頂いておると言う事です。十一からです。一時間つつですけれども。あの、むつ屋の、石井清子さんと言うご主人ですが、一番初めに、ここに座っているときに、ちょうど、参り合わせてからですね。もう、感動してからもう、頭が上がらなかった。ね。言うなら、あの、将来の、言うなら、当時の、椛目の二代目を継がねばならんから、本当に神様も、まぁ、こんな、いたいけない子供さんに修行させなさるというてね。もう、早速、紋付袴を、呉服屋さんですから、あの誂えて、作られて、そしてお供えをされました。ですから、あの十一からですね、紋付袴を着けて御結界奉仕しとります。その写真が、まだ残っております。ですから、家内が、「とても勝彦が悪うしてから、あーた、他所からこげな口上持ち込まれとるけん、あーた、どうか言いなさらにゃ」「私は言うた事がありません」ち。ね。「あの人が、御結界奉仕をするとば、いやち言い出したなら、俺が言う」という訳なんです。こら、他の子供達にでも、それが、私のほうにはあります、みんな。何か、ここだと思うておるところば、この人達が行じて行きよるならば、私が言うことは要らんという生き方なんです。ね。ですからね、金光大神の教えて下さることを一言でもです、例えばね、本当に、行じ守っていくならば、神様も、もっと大きな、私の気持ちよりかもっと遠大な、大きな気持ちでですね。あのそれを、認めて下さるだろうと思うです。そして、まさかの折には、聞いて下さると思うです。いや、また願えれるんです、これをやっていきよりますと、不思議に。ね。神様のお喜びいただきよる事を、自分はやってるんだという、一つのあれがありますからね。それこそ、常日頃は、御無礼ばっかりしとりまして、お願いのあるときだけ参ってすみませんと言うような事がないわけなんです。ですけん、何をかをです、そこに、いわゆる、教祖の教えて下さることをです。やはり。ね。ただ、もう私は、何十年間、お日参りしよりますというようなこっじゃいかんのです。ね。神様は、毎日、日参せろてんなんてんて、決して言うちゃなかですもん、教祖は。ね。ですからその、教えというものをです。本当に私は、あの、それを行じ抜いていくというところに、あの、ここには、金光大神の言うことに、ね。そむかぬようにという事は、あれもこれも守ってゆくという事ではないです。と、私は思います。ね。一言でも良いからです。これだけはという生き方を一つ、身に付けていかなければいけません。ね。そういうおかげを頂いてまいりましたらです。今度はね、次から次とね、教えは、行じなければ、守らなければいけんのです。
昨日、ある方が、お参りしたときに頂いた御理解のなかに、「御道の信心は、教えの実行を持って生命とする」と言う御理解を頂かれた方がありました。御道の信心はね。参るとか拝むということじゃなくて、その教えを実行するという事が、命だということなんです。だから、一つの事をです。ね。例えば、商売人が、あー、売り場、買い場を大事にせろと教えられますから、ね。また、十銭のものは、ね。えー、二銭は損のようでも、八銭で売れというような御教えがありますよ。だから、商売人の人がです。本当にあの、自分ところの商品にね、そういう生き方を行の上に、商売の上に現されるならね。それでおかげもいただかれるでしょう。まさかの折には、私は、金光大神に、金光大神助けてくれという時に、神様は助けて下さる働きがあるとこう思うです。
これは昨日、日曜でしたから、特別奉修委員の方の御祈念があっとります。そこの久保山さんです。ここの村内の方です。えー、はっきりあの、字で頂かれております。こういう事を頂いておられます。「自然と仲ようすること、神と合同するが信心」と頂いておられます。自然と仲ようするね。御教えの中に、神と仲ようすると言うね。神と仲ようする信心ぞと仰ることは、私は、本当に、チコチコとお参りをして、ね。神様のそばにこう寄せていただくということということばっかり、思うておりました。ね。神と仲ようする信心とは、繁々と、なら、教会にお参りをさせて頂いて、神様とちこちこうなっとる事が、なるほど、それも仲ようすることでしょう。けども、一番、本当のことは、自然の働きそのものと仲ようすること。合掌し合うておる事。いつも神様とこう、おー、拝み合うておる事。昨日の御理解のなかにも、ね。人間の思いというものは、例えば、一滴の、それが水であっても、谷川に入り、そして川に流れ、そして大海に打ち出す頃には、もう、一体と、いうならば、神様が、大海の水でおありになるならば、私も、やはり、大海の水になっておるという意味のお話を申しましたね。そういうような合同です。ね。そんなことになったら素晴らしいと思いますね。いつも久保山さん、毎日お参りになってから、お届けの一番初めに、お届けをなさることは、今日もどうぞ、成り行きを大切にさせてくださいというのが、この方のもう、毎朝の願いです。しかも、字ではっきりとね、頂いておられます。自然と仲ようすることが信心ということ。それは、神と合同することが信心という事になるという意味の事でございます。ね。私は、神と仲ようする信心ということが、あの、また、はっきり分からせて頂いたような気がします。ということは、自然の働きそのものと、仲ようすると言うことだと。私は思うのに、そういう事に、本気で取り組むということ。言うなら、今日も、いよいよ、成り行きを大切にさせて下さい。自然と、いよいよ仲ようする信心をさせてください。身に付けさせて下さいと言う生き方。例えば、この一つがね、本気で願われて、それが行の上に現されるならば、もう、絶対のおかげが頂かれるだろうとこう思います。また、そういう信心を、段々させていただいておれば、その事だけではありません。もう、日々の教えがそのままです。今日は、そういう生き方と同時に、今日の御理解をまた、ね。今日一日の芯としていただかなければおれなくなってくるのが信心です。してみると、金光大神の言うことにそむかぬ信心という事は、楽しゅう、有難う出来るという事です。問題は、だから、一つでも良いから、本気で取り組むという事です。ね。そこには、他の事は目に余るようなことがあっても、私が子供達の上にでもです。口上一つ、言わんで済んだというのは、その事だけは、間違いなく行じておるから。親の目としてです。そら、間違いだらけのところがございますけれども。ね。子供が、それを行じなくなった時には、親が、いよいよ言わんならん時であるという風に、私は、子供達のお育てを頂く、私の信条としましてね。そういう、まぁ、育て方をさせて頂いております。子供が無理を、まぁあの、私はもう、先ず、あの今日は、福岡に遊びに行くとこう言うか。はぁ何かを作りたいとこう言う。私はもう、ここにお取次ぎを頂いてくるときに、嫌と言うた事はありません。これは本当にです。「この頃からもあんた、福岡に行ったじゃんの、そげん行かんでん」ち言う事は言いません。お伺いをするときには、右が良い、左が良いと言います。けれども、今日は、あげんとば買いたいと思いますとか。どこに行きたいという時には、私は、必ずあの、「はい」、お願いさせて頂こうとこう申します。ということはです。金光大神助けてくれと言えば、助けてやるということと同じことでしょうが。どんなことでも、私は聞くという事です。これは、私と、子供の上の事なんですけれども、ね。だから、それを、ほんなら、大きく、私共と天地金乃神様との間の上においてもです。本当に、日頃は御無礼ばっかりしましてというような事では無しの信心。そして、貴方の仰ること、これだけは守っとります、行じておりますということ。ね。それも、しかもです、いわゆる、自然と仲ようするといったようなです、ね。これならば、神様の心に通うという事を行じなければいけんのです。そらもう、色んな人がありますです。
以前、私が、椛目の時代に、あの、選挙なんかに行ったことがなかったです。ある人が参ってきました。もう親先生、私は、親先生の真似は、なーにも出来ませんから、もう親先生が、選挙においでにならんけん、もう選挙だけには、行かんごたるふうにおかげ頂いておりますという人がありました。だから、こげんとば、私が真似したっちゃいかんじゃないですか。私は、私としての理由がある。その人は、普通なんでもないのである。選挙に行かなければいかんのでしょうが。そんな人がありました。ね。まぁだ、他にも私の悪いとこば見つけちからですね。もう、これだけは真似しよるち言うとがありますもん。はっはは、だから、悪かとこば真似しよってからですね。えっへへ、いわゆる、金光大神助けてくれと言うたり、天地金の神助けてくれと言うたって、親先生助けてくれと言うたって、それはいけんです。ね。もう、これならば、通うというものを一つです。本気で、あの、行じ抜く事です、信心とは。ね。そすとそこからです、生まれたくる、あの、一つ二つでは馬鹿らしゅうなってくるです。もう、日々の御教えをです、本気で、生活の上に現していくことが、楽しゅう、有難うなってくる。そこに、いよいよ金光大神の、いわば、言うことにそむかぬような信心が、本格的にです、本当に出来てくるようになるのです。身に付いてくるのです。何十年、信心しよったっちゃ、その、一言すらもね、守り抜けない人が、実を言うたら沢山あるです。守ったり、守らなかったりと言うのです。ね。貫かにゃいけません、信心は。これだけは自分のものになっているというものにならなきゃいけんです。ね。そして、本当な事を守りますから、必ずおかげが頂けます。だから、有難くなる、楽しくなるです。いや、守らなければ馬鹿らしゅうなってくるです。決して、教祖金光大神は、ね。そげな難しいことは、一つも教えておられんのですから。日々の生活の上に、ほんなら、今朝頂いた、ね。朝なら朝の御理解をです、今日はこれで行こうというふうに、行じて行くような生き方をさて頂くところからです。なるほど、御道の信心は、ね。教えの実行をもって生命とするといったようなことが、段々と分かってくるのじゃないでしょうかね。